茶の湯と堺

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貿易港・堺

その昔、平安時代には平清盛公が福原(現在の神戸)に貿易の港を開き、中国との日宋貿易が始まりました。その頃の堺は堺荘と呼ばれる小さな漁村にすぎませんでした。

時代が進み、室町時代の終わり足利義政公の頃になると、治世が乱れ、将軍の後継者問題などもあり、応仁の乱が生じ乱世の時代が始まりました。

幕府側の東軍は、神戸の港を山名・大内氏などの西軍に奪われたため、東軍の細川管領所有地であった堺を当時明国となっていた中国との日明貿易の港に変更しました。

 

南蛮貿易の始まり

神戸が貿易の窓口であった時は、瀬戸内海、下関、そして朝鮮、中国に通じる瀬戸内航路でしたが、堺が貿易港になってからは、泉州沖、紀伊水道、土佐沖、種子島、琉球、中国、フィリピン、そこからヨーロッパへ「海のシルクロード」につながる太平洋航路に変わりました。

その航路を通じて、様々な新奇な商品が輸入されるようになり、ポルトガル船が種子島に流れ着き、火縄銃が堺に伝わったのに始まり、薬種である肉桂や、当時、珍侘酒とよばれたポートワインなど様々な貴重な舶来品がもたらせました。これが南蛮貿易の始まりです。

 

茶の湯の始まり

堺古地図
堺古地図

茶を飲むという習慣は、室町時代に中国から京都の禅寺に伝わり、座禅の眠気さましに飲まされたのが始まりと伝わっています。

足利幕府8代将軍義政公はそうした禅寺での飲茶にし趣向を凝らして、茶の湯の元になる「公家の茶の湯」を創作しました。殿中茶の湯といわれる高貴なものでした。

教養人であった足利義政公ですが、その失政で応仁の乱が生じ、京都の街は荒廃してしまいます。戦乱を逃れるため京都のお公家様や職人たちは、 日明貿易で得た富と財力を蓄えた堺の商人たちの下に逃れました。そんな時代、当時高貴な趣向であった公家の茶の湯は裕福な堺商人の間にも広かっていましたが、それを町衆にもなじむように工夫・改革したのが、村田珠光でした。

村田珠光により町衆に広がり始めた茶の湯、中でも堺の豪商であった武野紹鴎は、禅道一味茶の湯を極め、 珠光の茶を「わび」「さび」の世界へ導きました。 この武野紹鴎は、茶聖千利休の師匠でありました。

 

利休と茶の湯

千利休
千利休

利休の幼名は与四郎。 モダンで自由な港町の、富裕な商家に生まれました。千与四郎は才気に満ちた少年でした。 他の商家の子息もそうであったように、商売に必要な知識と算術の習得、 和歌・茶道の教養を身につけたと思われます。 その中でも武野紹鴎に師事した茶の湯において、その才能を表しました。 当時茶は、嗜好品ではなく禅宗寺院の座禅の際に用いる飲み物として禅僧たちに珍重されました。

 

茶会記に「千宗易」の名が現れるのは天文13年(1544)、23才の時でした。 禅一味、「わび」「さび」の心を重んじる武野紹鴎に師事し、その侘び茶の理念に独創性を加えて、 1つの美学として町衆だけでなく、信長秀吉といった戦国大名衆にも認められるようになりました。

 

肉桂餅と茶の湯

茶の香り、そして肉桂の香り、共に独特の高貴な香りが好まれて、 嗜好品として、茶の湯そして菓子として創製しました。

利休の時代、茶会での茶菓子としては、栗、柿、ふやき(餅を焼き上げたもの)のような素朴なものでしたが、 その後の茶の湯の発展と共に和菓子も進歩してきました。「肉桂餅」はその歴史と、 「わび」「さび」にも通じるセピア色の姿、利休生誕の地としての堺の菓子として好まれ、 茶の湯の道の方々にもご愛顧をいただいております。

 

その他

●お茶席の茶菓子手土産として

●法人さまの接待菓子として

●各種法要仏用として

●祝事の引菓子として

多用途にご用命いただいております。

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定番商品

  • 肉桂餅
  • 南蛮好み
  • 肉桂涼感(肉桂水羊羹)
  • 南蛮小判(最中)
  • 肉桂楽(カステラ)
  • 利休楽(抹茶カステラ)
  • 南蛮美人(羊羹)
  • お干菓子
  • 詰め合せ(ギフト)

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